〜人に仕えて〜
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〜高校時代から大学時代に僕は多くのアルバイトをしました。〜
季節の 中で 高校時代から、進学した大学時代まで、僕はたくさんのアルバイトをした。そこで多くのことを学び、いろんな人の影響を受け、様々なことを知り、少なくとも今の僕という人間の”もと”ができたように思う。その時には気がつかなかった多くのことが後になって自分の中に残っていることに気がついてきた。高校時代は余り勉強もしないで友達と遊んでばかり、大学に進んでもろくに授業にも出ずに野球部の練習とアルバイトに明け暮れしていた。当然就職もうまくいかず、社会人としては0点に近い赤点だったけど、今は50点ぐらいはもらえるんじゃないかと思う。記憶をたどりながら当時のアルバイト生活を紹介したいと思います。学生時代にまさかこんなにアルバイトをして働くなんて最初は夢にも思いませんでした。 |
下の各項目をクリックしても見られます。
加登屋食堂 | 明世カントリー | 金中製陶所 | 日清製菓 | 飛馬スポーツ | 富士急行 |
竹山さん | コロラド | 土木作業員 | 池袋三越 | 消火設備会社 | 保母商店 |
加登屋食堂(高校2,3年夏休み) |
僕が始めて人のところでお世話になったお店です。地元にある、かつ丼の美味しい「加登屋食堂」です。親父同士が同級生のこともあり、とてもよくしてくれました。仕事は生ビールを出したり、注文を聞いて品物を持って行くだけです。たまに洗い物をしたり、近所の出前をしたり、下げに行ったりと、、そんな仕事でした。一番印象に残ったのはこの店の主人(誠ちゃん:故人)が毎月の集金をためて、集金に行き難い所によく集金に行かされたことでした。ちくりと、「毎月集金に来て!」とか、言われたものです。僕がいい大人になってからも誠ちゃんが亡くなる直前までよく二人で魚釣りに行ったことを思い出します。釣れない時は、ビールを飲んで河原でよく寝ていました。「誠ちゃん。。もう帰るよ!。」いろいろで楽しい思い出がたくさんあり、働くというより楽しかったです。とてもお世話になりました。 |
明世カントリー(高校時代の日曜日) |
高校時代はいろんな物が欲しくて家からもらっていた小遣い(1月いくらの)では足りずに日曜日のたびに友達とよくゴルフ場のキャディーのアルバイトに行った。その当時は今のように電動じゃなかったので、すべて手引き、けっこうきつかったことを思い出す。でも高校生がもらえるバイト代としてはよかったので、毎週ぐらい行っていた。また今と違って「お金持ちの遊び「だったので、よくチップももらった。心の中で「すごいなー。」とかよく思ったものでした。あるお正月、家族でみえたパーティーについて回っていたら、最後に「キャディー君、これ取っておきなさい。」と小さな袋をくれて、中を見たらお年玉として1万円入っていたことがあった、びっくりして「こんなにいいです!」と言って返そうとしたら、大きな声で笑いながら「まあいいから、とっておきなさい。」と言われた。。ものすごくお金持ちに見えた。そして嬉しがっている自分がまるで田舎の兄ちゃんに思えた。バイト代ではビートルズのレコードを買ったり、本を買ったり、フォークのコンサートのチケットを買ったり、好きな彼女にプレゼントを買ったりしたものです。余り成功はしなかったけど。。。 |
金中製陶所(高校3年春休み) |
地元にある大きな製陶所の金中製陶所です。大学の進路も決まり、入学するまでの1ヶ月半ほどお世話になりました。ここでは主に土練機という板状の土を円柱状にする機械について1日中、土練りをしていました。僕の他には当時50歳ぐらいのおじさんが二人いて、いろいろと教えてくれました。春休みだったけど、この部屋は土ばかりだったので、とても寒く感じたことを今でも覚えています。1ヶ月以上も休まずに働いたのはもちろん初めてだったので、一番最後の日に「ご苦労さんでした。」と声をかけられ渡されたアルバイト代は嬉しかったです。一生懸命働いた。。。そして記念品として陶器のスプンを3本くれました。いくらアルバイト代があったかは忘れたけど、半分ぐらいは下宿代の一部に使ったように覚えています。今ではこの金中さんから商品を仕入れているから不思議です。 |
日清製菓(大学1年) |
大学生1年目の初めてのバイト。同じ下宿の友達が校内の掲示板で見つけてきて、4人ぐらいで行った記憶がある。このバイトは辛かった。24時間交代の夜8時〜翌朝6時までの作業時間だった。途中2時ごろに休憩があるが、ダンボールを敷いて寝ていた。僕はここではビスケットにつけるチョコレートの漕にそばについて、チョコレートを足したり、沈殿しないように、大きなシャモジのような棒でかき混ぜたりする仕事をしていました。湯気立った甘い匂いと、ずっと立ちっぱなしの作業、下宿に帰ると朝ご飯を食べてすぐに授業、眠くないわけがない。授業中は居眠り。気づくと机に寝よど、、淋しい。1週間で次々みんな辞めてしまった。でもこのバイトは止めても部屋にはチョコレートに匂いだけしばらく残っていて、部屋に遊びに来る友人が「いい、甘い匂い〜」と言っていた。バイト中に居眠りをしかけると、見回っている人がいて、背中越しに新聞紙を丸めてそこらを叩いて大きな音を出して、目を覚まさせていたことが印象に残っています。「ドキッ!」。。いずれにせよ大変は仕事でした。 |
飛馬スポーツ(大学1年) |
大学1年生は静岡県の三島市にいました。この町の中心にヤオハン(今はない)があり、その中のテナントに飛馬スポーツというスポーツ店があった。文字通り巨人の星の主人公の飛馬である。バイト募集の広告を見て行ってみたら、すぐに来てくれとうことで、夏あけから冬までお世話になった。授業があるので、他のバイトの仲間と時間の調整をしながら4,5ヶ月行ったと思う。接客、レジ、テニスのガット張り、スキーのビンディングの取り付けなどいろんなことをした。正式な社員は一人だったので、割と自由な雰囲気で仕事ができたような覚えである。斜め向かいにレコード店があり、いつもその時のヒット曲が流れていた。特に印象に残っているのが郷ひろみの「ハリウッドスキャンダル」で、よく一緒に口ずさみながら、テニスのガットを張ったような気がします。また三島には東レがあり、当時バレーの全日本の深尾がいて、時々店に買い物に来ていました。「何て大きいんだ!」何人かでレジの前に立つと手元が暗くなったような。。。気がしたものでした。5年ほどして寄ってみたら、もうお店がなかったのは残念でした。この年、ピアノを買った姉にバイトで貯めたお金を少しカンパした。僕は大学1年のこの秋に恋をしてしまった。。。 |
富士急行(大学1年) |
大学1年生の冬、スキーツアーのバスの添乗員としてバイトをやった。これはスキーができると思って行ったのだけど、けっこう大変だった。スキー道具の出し入れや、人員の確認や部屋割、バスの掃除などスキーどころではなかった覚えがある。一度行ったら、会社から電話があり、この冬は何度も白馬や志賀などのスキーの添乗員でいった。でもなぜか最後まで、スキーはしなかった。考えてみればウェアーや道具もなかったわけだから、できなかったのは当たり前なのかもしれない。一式揃えると安い物で軽く10万円はしたように思う。この反動からか2年生から働き出すまでの3年間、1シーズンに30日ぐらい行くようになった。。 |
竹山さん(大学1年春休み) |
大学1年生を三島で暮らしたあと2年生からは東京に引越すことになる。世田谷の方にアパートも決めてきた。1年生までは下宿だったので、本当の意味の一人暮らしが始まる。先ずは”音”その当時はラジカセといってラジオをカセットテープが一緒になったものが流行っていた。この1年の春休みに買おうと決めてバイトをした。実家に帰ってきて、近所の絵付けの陶器の卸屋さんの「竹山」さんにお世話になった。デパート向けのギフトセットの箱詰めや窯の差し入れなど、いろいろなことをした。家の仕事と同じなので、慣れていてここでは重宝がられた。1歳上の先輩も一緒にバイトにきていたが、余り慣れていないので、皿を30枚ぐらい積んで紐で縛る仕事は全然できずに、全部僕がしたことを覚えている。「悪いな〜いっちゃん。。」といつも言っていた。1ケ月ほどバイトをさせてもらって、念願のラジカセを買って、東京の下宿に持って行った。すごく高かったし、大きかった。今では嘘のように小さく安い、何のためのバイトなんだろうと思ってしまう。1月かかって買えた物が今では2日もバイトをすれば買えてしまうなんて。。。ラジカセを買ったことより経験を買ったことになる。。 |
池袋三越(大学2,3年中元、歳暮時期) |
僕は大学時代、軟式野球部にいました。春は大島。夏は菅平で合宿がありました。この費用の捻出に部員皆で毎年三越でお世話になりました。授業や家の都合で働ける者、余り働けない者とそれぞれでしたが、ここで稼いだみんなのバイト代で合宿の費用に当てました。器用な者は包装、そうでない者は仕分け運搬で分かれてやりました。練習場が埼玉の東武線沿いにあったので、練習帰りにアルバイトに直行などということもよくありました。ここでは、実際のバイト代は個人には入りませんでしたので、部活の延長のような感じですした。スポーツマンだったのか、たくさん働いた者が誰一人文句を言わなかったのがごく当たり前でした。僕は野球はうまくなかったけど、先輩後輩とここでも僕はいい仲間に恵まれました。僕はこの野球部の活動でも手にできないほどの素晴らしい経験をしました。 |
消火設備会社(大学3年春休み) |
僕はこの春休みに1ヶ月半、伊豆七島とその属島などを消火設備の点検というバイトで過ごした。竹芝に集合して、そこで初めて会った5人で大島行きのフェリーに乗り込んでいった覚えです。バイトの内容は島の発電所を点検して回る仕事である。消火器の中身の入れ替えや、二酸化炭素の消火感知点検、ブザーの音点検など法令で決められた項目に従って5人でチームを組んで行っていく。1週間の作業日数だけど2日ほどで終わってしまうので、正社員の人は東京に戻り。僕達は大島、三宅、御蔵、新島、式根島、、、次の島、次の島へと移動をしていく。要するに法令で決められた人数の頭数のわけである。時間があくと、民宿から釣りに行ったり、みんなでマージャンをやったり、3度の食事は心配いらないし、他にお金を使うところもないし、今もその時に一緒に島を回った仲間と撮った写真を見ると、その時のことをいろいろ思い出す。音信は途絶えたけど心に残るアルバイトの一つとなった。1ヶ月半の間、一緒に働き、遊び、お風呂に入り、酒を飲んで有り余る時間の中で、ものすごくたくさんの話をした。将来のこと、彼女のこと、今のこと、青春の真ん中にいた時期でした。みんな元気でいるのかな〜。。 |
保母商店(大学4年〜卒業まで) |
僕が大学3年生の時、家が商売で750万円の不渡りをくらってしまった。そんなに大きな商売をしていたわけじゃないので当時の金額としては大変だった。、秋頃から仕送りもほとんどなくなり、でもあと1年なのでと、いろいろ考えた末に4年生から東京の下宿を引き払い、瑞浪の家から東京の大学に通うことにした。ちょうど伊豆七島のバイトが終わるのを待って引越しをした。コロラドのバイトも辞め、大好きな野球部も辞めた。突然訪れた思いも寄らない東京の学生生活の終わり方であった。授業が1週間に1度、月曜日の1時間目だけだったので、あとは家の仕事の手伝いをすることにした。日曜日の夕方家を出て名古屋を夜、高速バスで出ると、翌朝6時ごろに東京駅に着く、まだ時間があるので友人のアパートに転がりこんで休ませてもらい、1時間だけ授業を受けたらまた高速バスで家に帰ってくる。こんな生活を卒業まで続け、それで何とか卒業ができた。学校から帰ってくると田舎の友達が車で駅まで迎えに来てくれて、バスで30分もかかる家まで送ってくれたことが何より嬉しかった。でもこれがこのあとの僕に最も力になった出来事だったかもしれない。多くの人に感謝して僕のバイトの生活は終わった。心が辛い時には温かい励ましがなんとも言えず嬉しく、泣けて泣けて仕方ない夜も何度もありました。両親、兄弟、友人、知人、、いろいろな人の中で生きてきたことを深く思います。「ありがとう・・・」それ以外言葉にならない。。。 僕達はいつも 季節の中で生きている。 |
1日、2日のアルバイト |
チラシ配り、印鑑屋さんの店番、夜間の配線工事、LPレコードのジャケット張り、山の下草刈り、プール当番、造園屋さん、トラック助手、交通整理、などなどたくさんのアルバイトを通じ多くの方々にお世話になりました。楽しいこともたくさんあり、辛いこともたくさんありましたが、そのすべてがいい経験になったと最近わかってきました。忘れてしまったこともはっきり覚えていることも、どこかで僕の一部となっています。ありがとうございました。 |
ながながとくだらない記憶・記録をご覧いただきありがとうございました。